ベトナム戦争が真っ盛りの折、私は 横須賀に住んでいた事があるそうだ。
父親の仕事の関係…なのであるが、通称:ドブ板通りの近くにあった ある店の二階を間借りしていたのだという。
というのは 全て、両親からの伝聞で その当時、私は記憶が残らないほどの幼少期だったからだ。
夜になると 米軍ベ-スから ベトナムに往来する為に立ち寄った米軍人達が繰り出し、まるでアメリカの街の様だった…と 母は言う。
私は浴衣を着て 間借りしていた店の前で もう一人 別に間借りしていた家の子供と花火をして遊んでいると、浴衣を着た日本の子供が物珍しかったのか 米兵達が「ヘイ、ボ-イ」と私達を抱き上げて写真を撮り、両替できない不要になった小銭をチップの様にくれた。
私の父は その小銭を持って 私を連れて焼鳥屋に行ったり、パチンコ屋に行ったそうだ。
当時の物価を考えれば、たかが小銭と侮れないほど 浴衣を着て放し飼いにされた私は 夜な夜な良い稼ぎをしていたのだそうだ。
ほんの1年間の間だったが、(私には全く記憶が無いが)その後、父の転勤で横須賀から離れて以降 しばらくの間、横須賀に再び訪れる機会は無かった。
大学生の時、たまたま知人が横須賀の武山におり その彼に会うのと、話に聞いていた横須賀を見物したくて出向いたのが 物覚えがついてから初めての横須賀だった。
東京から横須賀というと 私のイメ-ジでは かけ離れた場所だったのだが、品川から京浜急行に乗り換えて 特急だったら1時間前後で着く。
その割に、着いてからの風景は 東京都は似ている様で非なる場所。
京急「横須賀中央駅」から 歩いてドブ板通り方向に行けば 母の言う「アメリカの街の様な…」という雰囲気が漂い出す。
母から聞いた話を頼りに 念願のドブ板通り界隈を再び歩く。
昼間だったからか、ベトナム戦争時と違って米兵が少ないせいか 聞いていたイメ-ジとは全然違ったが、そこに1年暮らしていた…という事のせいか なんとなく懐かしい雰囲気だった。
通りを抜けて 海に面した場所に出ると そこは米軍ベ-スと海上自衛隊の基地である。
普通の港では無く、まさに「軍港」である。
海自の護衛艦や潜水艦、米軍のフリゲ-トや 様々な艦と港を往来するグレ-の小舟達。
私が 時々、取り憑かれた様に作るプラモデル 1/700ウォ-タライン・シリ-ズの 第二次大戦時の日本海軍の艦艇も この海に停泊していたのか… そう思うと感慨深い。
近場の雑貨屋に入ってみたら 入り口近くに コ-ラやファンタの缶入りが 6本パックになって積まれていた。
6本パックというモノじたいが 初めて見るスタイルだったが、それを良く見ると 日本のコカ・コ-ラでは無く、アメリカのコカ・コ-ラだった。
考えてみれば そりゃそうだ。
コカ・コ-ラって 元々、アメリカの飲み物なんだ。
何が違いがあるのか… そう思って1本 買って飲んでみた。
なんとなく 日本でいつも飲んでいる物より甘いけど 後に残らないスッキリした甘さに感じた。
後で聞いた話によると 関東周辺で販売されているコカ・コ-ラと 私の故郷、北海道で販売されているコカ・コ-ラは 同じ会社でありながら製造工場が違い 味も微妙に違ったのだそうだ。
(注:これは今から20年以上前の話です 現在の状況は知りません))
当時、北海道で「アメリカのコカ・コ-ラ」を飲む機会」は まず無い。
だから、私は それを箱で買って宅配便で送り 友人達へのお土産にした。
横須賀という街は そういう環境のせいか 道産子の私には雑貨屋で なにげなく売っている小物が 非常に物珍しい物ばかりだった。
派手に背中に 日章旗や竜の刺繍の入ったジャンパ-、奇妙な形のデザインのサングラス… TVでチンピラが身につける衣裳や小道具みたいなものが ごく当たり前に店頭に並べられていた。
それと、写真屋と似顔絵屋が一緒になった店…というのも やたらと目に付くぐらい多かった。
寄港した米軍艦艇の水兵達が 記念撮影や似顔絵を描いて貰うのだろう… そう考えると、なんか感慨を覚える。
日本全国、どこの町や村にも 独自の文化や風習がある。
当然、横須賀にも それがある。
失礼な言い方を許していただくと 山村であれば、東北の山村も 岡山や鳥取あたりの山村も 採れる物が微妙に違っても山村独特の雰囲気に大きな違いは無い。
しかし、横須賀の雰囲気は 明らかに横須賀でしか味わえない雰囲気だと その独特さを感じる。
似たような雰囲気を感じたのは 広島の呉や 長崎の佐世保、いずれも米軍の施設があり、日本海軍の軍港だった…という似た歴史があるせいであろう。
この雰囲気は 何故か、奇妙に私には心地良い。
帰りがけ 映画館の前を通ったら 券売り場の窓口に「子供割引、学生割引」と並んで「自衛官割引」というのがあるのを見つけて 面白かった。