昨日、掲示した「うごるあさんに 捧ぐ」の続編です。
今回も コメントのレスが長くなっちゃいましたので 別記事にさせて頂きました。^^;
何時も他人のブログへ来ては自分の意見を語る場にしてしまっている私に対して、この様な扱いをしていただき、真に感謝しております。
と同時に、このような交流のキッカケになり大きな感動を与えてくれたTV版「世界の中心で、愛をさけぶ」の製作者にも感謝します(石丸Pもですよ)
他のブログがどうかは知りませんが、ここは 全然、ノ-プロブレムです。
「ノ-プロブレム」と書きましたが 基本的に私(ブタネコ)の興味が無い話題に関してはスル-しますし、気に入らない場合は 削除したりもします。 御留意下さい^^;
【7月14日 午後19時30分 ブタネコ注記】
「うごるあ」さんの御意見・御指摘からは 過去に「あ、そっか…」と気づかせて頂いた事が何度もありますから 歓迎ですよ^^
ただし、「(石丸Pもですよ)」という部分だけは不同意です^^ 彼とは「あいくるしい」で プラスマイナス・ゼロの関係だと思ってますから^^
ちょっと考えが変わったかもしれません
というのはブタネコさんの仰る
「あの世なんて無いって亜紀が言ったんだもん」
という言葉です。
これで私は原点回帰しました。亜紀が「何故自分が」という苦しみから
アボリジニの死生観に救いを見出し、
死はマイナスな事ではない、自分の死にも理由があるはずだ、という考えに行き着き、死に方に夢を求めるようになり、そしてウルル行きへとなって行きました。私がこのドラマに最初に感動したのはまず、そこだったじゃないか、と思い出しました。
死んでもなお、この世での土となって花をさかせ、生きている人の中にずっといる。
これこそが亜紀があこがれた死生観=このドラマの死生観でした。
その通りだと思います。
その「死生観」は 私にも新鮮というか、とても説得力のあるモノに感じましたから。^^
私は亜紀とサクにとって二人一緒にいるところこそ天国なので、そこが死んだ後の世界だろうがこの世であろうが関係無い→よってサクが死んだ後の世界は亜紀と同じ世界にいる事になるのでそこが天国だと思ってラストシーンを人生を走り終えた後の再会としてきました。
そういう解釈もアリだと思います。
ただ、亜紀が空港で「ここ天国だもん」と サクの腕の中で言うシ-ンがあるから、別な解釈が生じたり、意見が分かれる原因になってしまうと思うんです。
が、原点に帰ってみると、亜紀は死んだ後も土となってアジサイを育て、サクを明季が言うが如く支えてきたので亜紀はどこにも行っていない、ずっとサクの中にいたんだ、という事に気づきました、というかそうだったんだという事を思い出しました。
ふむ、そういう解釈もアリですね^^
そうなるとサクの死後に再会というのはおかしくなります。
なのでサクの「走り終えた後、笑って君に会えるだろう」の台詞の解釈は
「この17年間は亜紀を送ってやることが出来ずにいたダメな自分だったけどようやく前へ走り出す事が出来た。これなら人生終えた後亜紀に”オレ、ちゃんと頑張れたよ”って言える人生がおくれるような気がする」っていう意味かな、と今は思います。
ラストシーンはそれの想像、つまり夢・・か。
ブタネコさんの解釈に近寄った事になりました。
結局、
「死んじゃった後の亜紀は どうなっちゃうの?(どこ行っちゃうの?)」
という事に関する解釈によって ラストシ-ンの解釈も含めて 物語全体の解釈が大きく変わってしまうと思いませんか?
私が言いたいのは まさに、そこなんです。
それが「死生観」や「宗教観」の解釈による部分だと思うんです。
一般的に言う「神様が作った天国」が存在する…という認識の上での解釈なら ラストシ-ンを 死後の再会…と解釈するのは自然だと思うんです。
大抵の一般的な多くの視聴者は たぶん、そう解釈するだろう…と思います。
しかし、私は亜紀が 一度は「あの世なんて無い」って言った事を重要視したいんです。
だから、断末魔に「ここ天国だもん」と言う 亜紀の発見した「天国」とは 一般的に言うところの「神様が作った天国」とは違う「天国」じゃないか?と。
そういう視点で考えると
「世界の中心」->「愛する人の腕の中」->「心の中」->「天国」
という構図が思い浮かび サクの「心の中」に「天国」を見出したんじゃないか?と愚考する訳です。
ただ、この場合の亜紀が見出した天国とは あくまでも死後の安住の地…という様な意味であって やはり、一般で言うところの「神様が作った天国」とは違いますから ラストシ-ンを「死後の再会」と解釈するのは 私には説得力が乏しく感じるわけです。
では、17年後のサクは 亜紀がサクの心の中にいる事を どうやって気づく事が出来たのだろう?… と、考えた時 そこに「亜紀の意思」というべきモノが働いた… と考えると 私はスンナリと理解出来た様な気分になりました。
その「亜紀の意思」とは takuさんが言われた説 そのものです。
ただね、余所で誤解されているようだから申し添えますが、亜紀が霊となって現れて その意思を伝えようとした…みたいな解釈をしているわけではありません。
生前の亜紀とサクの会話の中に 本来であれば、とっくの昔にサクが気づいていてもいいはずのヒントを亜紀が残していると思うのです。
(第5話の「宗教観」「死生観」の会話や 第7話の夜の浜辺での会話です)
ただ、亜紀の死に直面し そういった事に気づけないほどの喪失感に サクが襲われたが故に その後の17年に至ったんじゃないかな…とも。
で、何故17年目なのか?という疑問は ちと棚にあげて、サクが ようやく気づくに至るキッカケ… 「亜紀の意思(遺志?)」という意味なんです。
で、ラストシ-ンの解釈を「夢」と考えたのは 記事で述べた通り、亜紀の死を受け入れ、遺灰を撒く事が出来た後の サクの心境やサクが見るべき夢とは どんなものか?と考えた時に ラストシ-ンの様な情景なんじゃないか?と思ったら 私はスンナリと理解出来た…という意味でもありますが、違う言い方をすれば 「視聴者救済の為のシ-ンだ」という解釈をする人々に対して 「自分達ばかり救われた思いをしてるんじゃない」って言いたい気持ちがあるんですね 私の中に。
つまり、「17年間 サクは苦しんだんだから、この際、サクにも良い夢を見せてやれよ」とでも言えばいいのかなぁ…^^;
でも、やっぱりちょっと
>「生きている間は明季を愛し、死んだ後は亜紀を愛す…」は、腑に落ちません。
何か最終的には明季の気持ちは無視なの?っていう事になるので、どうにか落としどころを苦心して見つけようとするから苦しい解釈になるんだよな・・
やっぱ、腑に落ちませんか…^^;
正直言って、私自身も「苦しい解釈」って思ってます^^
で、ここは 私も原点に返って
「あの世なんて無い」って亜紀が言ったんだから「死んだ後は亜紀を愛す…」なんて考える必要は無い…と言う事で
「死ぬまで明希と愛し合った」
で、いいかな…と。
ホント、明希の事なんか どうでもいいんです。^^;
だって、亜紀は死んじゃったんだもん。
サクは17年悩んだかもしれないが、私にとっては 今年の正月明けに亜紀の死をDVD-BOXで触れてから まだ7ヶ月ちょいしか経ってないんです。
まだ、その喪失感から抜けきれてないんです。^^;
(う~ん 言い訳になってませんね、また 怒られそうだ…^^;)
”「たこ焼きパパさん」の前でコソコソ葉書を書いていた”朔へ、空から雨が落ち始め、ピンクの傘を差し出す亜紀ちゃん。初めて二人で「相合傘」で亜紀を家まで送る時、可愛いピンクの傘の”袋カバー”は、朔の家で亜紀がたたむ洗濯物の「靴下の結び」と、ウルルに行く準備のために開けた亜紀の部屋の引出しの「靴下の結び」と同じく、傘の紐に”結んであった”。。。 ずっと、”そのままの亜紀ちゃん”なんですよね。
素晴らしい脚本、演出、プロデューサーの作品に出会えてしあわせに思います。
すみません、庄之助と、申します。
前回の、うるごあさんに捧ぐパート1の、時にコメントをいただきました。そこで、私の思っていることを少しだけ、言わせていただきたいと、思いまして失礼かとは思いましたが、書かせていただきます。
ブタネコさんの、
「ただ、TV版の場合、亜紀の視点で見ると
「きっと亜紀は 明希を容認したんじゃなかろうか?」
そう言う風に感じる描写でしたから 個人的には
完全には受け入れられないながらも 亜紀が容認する
なら 私も容認しよう… そう解釈して 今日に至ってます^^;」というコメントがございましたが、確かにその考えも有りでしょう。が、しかしたとえば、亜紀の性格上、完全に容認していないと考えられないことは、ありませんか?と、言うかむしろ明希に対しては、「朔ちゃんをよろしく」とは、言ってないような気がしています。 わたしも、亜紀のなにがしかが17年後の朔太郎の周りではたらいている、と思いますが、私は物語の始まりのジュリエットからのはがきの内容が気になって気になって仕方ないんです。「今はもう、17年も会ってない」って言うくだりが。17年間肌身離さずに亜紀を持っていた朔が、17年間会ってないもの・・・・。ソラノウタと、夢島のテープです。17年前の夢島を聞いた明希は、亜紀の存在の大きさを知ります。「亜紀が、明希に対してはった意地」みたいなものがみえかくれするのですが・・・。
亜紀が残してなかった、朔へのテープは、17年前に実は残してあったんです。本当は、亜紀は生きたかったんです。だから、テープの中で亜紀の17年後は、「朔ちゃんと、私と子供」の構図になっていたんじゃないかと・・・。・・・・
論点がずれたので、また書きます。
>Lala さん
「素晴らしい脚本、演出、プロデューサーの作品に出会えてしあわせに思います。」
「プロデュ-サ-」という部分以外は 全て同意です^^
「プロデュ-サ-」という部分について不同意の理由は
別記事で何度も述べてますので 割愛しますね^^;
>庄之助 さん
『亜紀の性格上、完全に容認していないと考えられないことは、ありませんか?』
あり得るでしょうね^^
でも、
『むしろ明希に対しては、「朔ちゃんをよろしく」とは、言ってないような気がしています。』
という御意見は 完全否定はしませんが、私は不同意です^^;
「ヤキモチ」の様な感情が 亜紀に芽生える可能性は高いと思います。
しかし、「生きていくあなたへ」~「がんばれ」の流れに
「サクのためを思えば…」
「サクには 新しい出会いがあって…」
という 亜紀からサクへの思いやりの様な遺志というか配慮を感じますので、「朔ちゃんをよろしく」と言っていると考える方が 私には自然に感じるからです。
「夢島のテ-プ」に関する庄之助 さんの解釈は 興味深いなぁ…
とは思いましたが、申し訳ありませんが 説得力を感じませんでした。
それは 亜紀がテ-プを吹き込んだ時点での亜紀自身は「鼻血」「微熱」「青あざ」「再検査」等の要員から 得体の知れない恐怖を感じているフシはあるけれど、その正体が「白血病」とは認識していないし、「死生観」や「宗教観」も含めて その後の入院生活で大きく変わっている部分があるからです。
ですから、夢島の時点で テ-プに吹き込まれた内容は たしかに その時点での 亜紀の将来に対する「幸福感」を述べた物とは思いますが、その後 亜紀自身が悟った自分の運命において そのままを サクに求めたり、願ったりしただろうか?と考えるとき 私は 違うと思いますので説得力を感じません。
それと…、
『亜紀が残してなかった、朔へのテープは、17年前に実は残してあったんです。本当は、亜紀は生きたかったんです。』
すいません この部分に関しては 庄之助さんが 何を仰りたいのか意味が判りません^^;
そして、
『論点がずれたので、また書きます。』
とありますが、確かに論点がずれていると思います。
また書かれるのは構いませんが それに私はおつきあいしなきゃ
駄目ですか?
正直申し上げて
『「亜紀が、明希に対してはった意地」みたいなものがみえかくれするのですが・・・。』
という一文を拝読して 庄之助さんがイメ-ジする「亜紀」と 私のイメ-ジする「亜紀」は かなり違うと感じました。
だからといって 私は庄之助さんを 説得しよう…とか 議論して
論破したいとは思いません。
同様に 何を どう言われても その辺の私のイメ-ジは根本に
関わる部分なので 今更、変わり様が無いと自覚するからです^^;
どうか御理解の程を…^^;
今晩は、ブタネコさんおじゃまします。
色々有りましたので、前の記事も含めたものになります。
ラスト・シ-ンの解釈、一番納得のいくものでした。
私も始めは、「人生を走り終わったサクが 亜紀と笑って再会した」ことで満足していました。でも良く考えれば、『あの世なんてない』と言った亜紀が堤防で待っている訳は無い事に気がつきました。ましてや、「視聴者救済のシーン」は論外と思います。あれほど隙の無いドラマを作った『堤幸彦』が視聴者救済の為に大事なラスト・シ-ンを使う訳が無いと思うからです。
「ビックリした?」については、色々な解釈があって良いと思いました。
亜紀と明希については、少し辛口の意見を書いてみます。
「かたちあるもの」の歌詞にあります。
もしもあなたが寂しい時に
ただそばにいることさえできないけど
失くす傷みを知ったあなたは
ほかの愛を掴めるそう祈っている…
この所が、亜紀の気持ちを良く表していると思います。亜紀はそれが誰であろうと朔太郎の選択に異議は唱えないと思います。そしてこの今(とき)を生きる朔太郎の愛が明希に注がれることも認めていると思います。
明希も形は違えど「失くす傷み」を知っていると思います。だから亜紀の事を知った上でも、朔太郎と家族になったのだと理解しています。
そして無責任のようですが、その後の朔太郎と明希についてはあまり興味がありません。酷なようですが、もしかしたら原作にもある朔太郎の由来の人『萩原朔太郎』のように(後述)不幸な結婚生活を送る事もあるかと考えたりします。
『萩原朔太郎』と初恋の人『エレナ』
朔太郎は19歳の中学時代、4歳年下の妹の同級生エレナ(洗礼名)に恋をします。しかし初めての恋ゆえ、気持ちを伝える方法を知りません。やがて、朔太郎の焦がれる気持ちを知らぬままエレナは嫁いでいきます。それでも、想いを絶つことが出来ない朔太郎は28歳の時その想いを『ソライロノハナ』(未発表)という自筆の詩集にまとめます。翌年、その詩集を渡すことも無く人妻エレナとの恋に破局、そして朔太郎32歳の時にエレナは亡くなります。その後朔太郎は34歳で結婚し2女をもうけますが10年後に離婚。晩年、再婚しますが一年でまた離婚することになります。エレナのことを忘れられなかった朔太郎が離婚の原因とも言われています。
ブタネコさん、詩集『ソライロノハナ』これは「空色の花」ではなくカタカナで『ソライロノハナ』と書きます。堤幸彦の「空趣味」から「ソラノウタ」が出来たと思っていましたが、萩原朔太郎が初恋の人に宛てた、詩集『ソライロノハナ』も含んでいると思いませんか。これは堤幸彦の遊び心のひとつではないかと思います。とっくに知ってたよと言われるかも知れませんが。
また、これからもお邪魔させてもらいますので宜しく。
二度も続けて記事を頂き、恐縮です。
また時間が経てば違う考えに至るかもしれませんが
とりあえず、あの世での再会説よりも
サクの夢、という方が落ち着けるようです。
>サクは17年悩んだかもしれないが、私にとっては 今年の正月明けに亜紀の死をDVD-BOXで触れてから まだ7ヶ月ちょいしか経ってないんです。
ふー。そうなんですよね。
サクは17年間で済みましたが、私ら17年で済むんでしょうか?
今回の件で他の方の意見も聞けたのでそれも良かったと思います。
ただ、光太郎さんの仰る「かたちあるもの」
の歌詞の内容とのリンク説はどうなんでしょう?
例え事前に彼女に内容の説明があったとしても
果たして柴咲コウがTV版の亜紀を理解していたかどうか。
あの歌は主題歌としてとてつもなくドラマに貢献していると思いますけどね。
若干引っかかります。
『ソライロノハナ』は知りませんでした。
そうなると光太郎さんのお説の通りかも知れませんね。もちろん空趣味も大きいんでしょうが。
>光太郎 さん
「かたちあるもの」のというエンド・テ-マ曲が TV版「世界の中心で愛をさけぶ」を 素晴らしく、かつ 素敵なものに仕上げている…という風に 私は受け止めています。
しかし、物語を解釈する上で 欠かしてはならない要素か?と考える時 私は、微妙に そこまでの重要性を感じません。
(全く必要無い…なんて意味じゃないですよ^^; 念のため)
歌詞の内容は まさに亜紀の心情を描いたモノ…という解釈に異議などありません。
視聴者に さらなる感動を呼ぶ内容だとも思います。
けれども、「かたちあるもの」の歌詞で描かれている亜紀の心情は 私にはロマンチック過ぎる側面的なモノ…という感が否めないのです。
亜紀の心情を察する考察…という意味では 非情に興味深く 説得力もある。
しかし、冷めた言い方をすると この歌詞で窺える亜紀には「未練」の強さを必要以上に感じるのです。
亜紀に「未練」が無かったとは思えません。
でも、この歌詞の様な「未練」かな?
そう思うと ちと、疑問を感じるのです。
ですから、私は これまでに色々と語ってきた考察の中で「かたちあるもの」についての重要性は 特に触れずにきたはずです。
「かたちあるもの」を特に重要と受け止めて考察される方が多いのを知っています。
それはそれで ひとつの根拠であり、キッカケになるものとも思います。
ただし、それは 私の採るところではありませんでした。
この考えは 今のところ変わる理由を見つけていませんので 今後も しばらくは続くと思います。^^;
詩集『ソライロノハナ』については 全く知りませんでした。^^;
ちと調べてみたいと思います。
(情報ありがとうございました)
>うごるあ さん
「私ら17年で済むんでしょうか?」
きっと 済まないでしょうねぇ^^;
寝たきりの爺ぃになっても尚、ヘルパ-の人にワガママ言って、毎日 DVD観てるような気がします。
まさに、プレイ・リバ-スの繰り返しで^^;