2005年に公開されたらしい映画版「ケータイ刑事 THE MOVIE バベルの塔の秘密~銭形姉妹への挑戦状」というのを見た。
この映画の原形のTVドラマ・シリーズがあるそうなのだが、私は見てないので知らない。^^;
じゃぁ、なんでブタネコが これを見たの?と聞かれると…
「黒川芽以」「堀北真希」「夏帆」という3人が見たかったんだmon♪
どうやら、この銭形姉妹には 長女「愛:宮崎あおい」とか 従姉妹として「雷:小出早織」とか やはり従姉妹で「紅子:平山あや」がいるらしく 紅子は「ルーズソックス刑事」だったらしい…なんて事は この作品に出てないから どうでも良い。^^;
暇潰しに「ながら見」するには手頃なDVDで
キメ台詞である「謎は解けたよワトソン君♪」は とても心地良い響きがある。
見どころとしては「黒川芽以」「堀北真希」の二人が とてつもなく拙い踊りを見せてくれるところだろうか…^^;
「夏帆」の棒なところも微笑ましく、
今から2年前に こんなんだったんだなぁ…と眺めるには 貴重な歴史的資料とヲタなら考えるんじゃなかろうか^^;
ま、この記事は「見たから記事にした」という安易な気持ちで掲示したモノなので 間違っても真剣なコメントを寄せないように御願いし、甚だ簡単措辞ながら以上で この記事を終える。^^;
あと数日で娘と姪が大学を卒業する。
TV版「世界の中心で愛をさけぶ」を見て以来、妙に目敏く気になっているのだが…
その後、製作されたTVドラマや映画において
「(自分が)生きる意味」
「(自分が)生まれてきた意味」
「(子供に対して)生まれてきてくれてありがとう」
なんて問いかけや台詞を語るシーンが心なしか増えている様に感じる。
それが良いか悪いかはともかく、ワイドショーなどで「幼児虐待」や「育児放棄」なんて話題のニュースが流れたり、未成年者の犯罪が起きた時にも同様に 上述した言葉が溢れ、知的障害等の子供にスポットをあてた番組でも同様だ。
まぁ、親子間の感情が希薄だ…とか 親の責任が問われる話になると 最近ではお題目の様に使われ、そんな当り前の事をコメンテーターが話すのが日常の風景になりさえしているのを見て「なんだかなぁ…」と思う今日この頃だ。
さて、別に畏まって 私が自分の「生きる意味」や「生まれてきた意味」など考えた事など ハッキリ言って無いけれど、娘達の卒業を目前に控えて 最近、ふと思った事を述べると…
子供が生まれ、親となるという事は 当り前の事だが、その子供を養育する義務が生ずる。
で、「養育する義務」とは ただ、身体を大人に成長させるだけでは無く、大人としての精神を育ませる事も意味する。
その場合、「子供を養育する義務」って「子供が生まれた時」を始点とするならば、終点はいつなのだろう?って事を ふと考えた事がある。
最近では 殆ど死語だが、小・中学校の教育を義務教育と呼ぶのだが、高校に進学する子供の多さを考えると 私には高校教育も今では義務教育の期間とさえ思う。
けれども、では 子供が高校を卒業した時点で「養育する義務」は終了なのか?と考えると それは違う。
何故ならば、日本の憲法では20歳未満を「未成年」と定めているからであり、「未成年」=「子供」なのだ。
が、この「未成年」と「成年」の境界線って 実は そんなに簡単に割り切れる物では無い…と、私は思うのね。
例えば、高校卒業後 就職したり、特殊な環境に弟子入りする子供達が沢山いる。
就職した子供であれば 当然の事ながら、自分で収入を稼ぎ、国に対して納税の義務も果たす。
その様な18歳以上20歳未満の若者は「未成年」なのか? そこに私は疑問を感じる。
同様に、20歳を超えても大学や、予備校、専門学校に通う「学生」を「成人」と扱うのにも 私は疑問を感じる。
ゆえに、私の場合 我が家の娘達が20歳になっても実質的に「成人」とは扱わず、大学の卒業式が「成人式」にあたると個人的に定義づけて考えてきた。
であるが故に、その卒業式が間近になり いろんな意味で感慨無量となるわけで…
娘たちが成人するという事は 私の「子供を養育する義務」も終了を意味し、それにより「私が生きてきた意味」のひとつも達成された事を意味するんじゃないか?… そう思うのだ。
現実論から言えば 私は自他共に認める「親バカ」である。
いくら娘が成人したと言っても 娘の結婚の際には ひと波乱もふた波乱も起こしてやろうと楽しみにしていたりもする。
でもね、子供に「大人としての精神」も育ませる為には「子離れ」も重要であり、必要なのである。
古人曰く「可愛い子には旅をさせろ」という言葉がある。
これは いろんな解釈があるらしいけど、一般的には
「大学や就職の際には親元から離れさせ、一人暮らしをさせるのも親子の為だよ」
という解釈が多いらしいが、ブタネコ式解釈は
「子供には いろんな冒険や挑戦をさせろ」
だと思っている。
この「冒険」とか「挑戦」とは「そんな事、危ないから止めなさい」と、「親が子供の行動を制限する事」として昨今、認識されている風潮も含む。
例えば、公園からブランコや鉄棒やジャングルジムなど遊具が どんどん撤去されている。
何故かと言えば「危ない」からだと言う。
確かに老朽化や器具や 破損した器具は危険だから即修理、出来なきゃ撤去は理解できる。
でも、昨今の風潮では 新品の器具でも「指を挟む」とか「高いところから落ちたら」という理由が十分に危険に値するのだそうだ。
まぁ、思い起こせば ブランコに指を挟んで切断してしまった…とか、ジャングルジムから落ちて頭を打って死亡した…というケースは少なからずあったのは事実。
でも、最近の風潮の様に「そこにブランコやジャングルジムがあるのが危険」とするのは あまりにも安易なんじゃなかろうか?
自分たちの子供の頃を思い出してみると…
当時の親も「~は危ないから行くな」とか「遊ぶな」と よく言われたもの。
「豊平川は 水が浅そうに見えて、実は流れが速く 川底の石はコケが多く生えているから滑りやすい」
大人が言葉で言うのは簡単だが、「どれぐらい流れが速いのか?」「どんなに滑りやすいのか?」なんて事は 真夏のクソ暑い日で 川の水も極端に少ない時に
「今日なら平気だろう」
と、靴や靴下を脱ぎ ズボンの裾を捲り上げて川に足を入れ 滑ってスッ転んで全身ビショ濡れになって初めて実感できる事。
まぁ、そう言うと「実感した時が死亡に至り易い危険な行為」と目くじらを立てる大人も多いのは頷けるが、人間ってのは 実感して初めて理解できる事の方が圧倒的に多いのも事実なのだ。
ナイフや包丁が どれだけ危険な物なのかは指を切って初めて判る。
車道に飛び出すのが 如何に危険なのかは、運転して 飛び出されると物凄く実感する。
「身体が健康」が どれだけ幸せな事かは、病で床に伏せれば バカでも気づく。^^;
そういう極論的状態は わざわざ実感する必要は無いし、むしろ してはいけない。
けれども、そういう極論的な状態こそを想像し、そんな状態を恐れるためには 些細な危険は むしろ、子供の時に実感した方が良いのでは?と思う事が多々あるのだ。
まぁ、そうは言っても 男の子と女の子とでは 意味合いが違うとも思うわけで、ウチの場合は女の子が二人で 息子はいないから、言ってる意味も違うのは否めないけどね。^^;
そんなわけで、近々 私は「生きてきた意味」のひとつと言える「子育て」を終了し、娘達を「成人」と認める事になる。
巧く表現できないのだが、いろんな意味で感慨深い今日この頃でもある…と言う事だ。